Snail Climbing Mt. Fuji Zen Painting ー山岡 鐵舟
Snail Climbing Mt. Fuji Zen Painting ー山岡 鐵舟
Item Code: Z004
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かたつむりが富士山に近づいていく様子は、著名な禅僧であり、剣豪から学者へと転身した山岡鉄舟による、困難な状況に立ち向かう決意と忍耐の比喩です。紙に墨で描かれ、布縁に木製のローラーが使用されています。巻子寸は57cm×210cm(22.5×82.5インチ)で、オリジナルの状態を保っています。紙に若干のしわがあり、縁布の左上に2つのシミがあります。
このテーマを文学作品で言及した最も有名なものの一つに、小林一茶(1763–1828)の俳句「かたつむり そろぞろ登れ 富士の山」があります。この比喩は禅宗や文学芸術でよく用いられ、雄大で壮大な富士山を小さなカタツムリがゆっくりと登っていく様子を思い起こさせます。忍耐、謙虚さ、そして大きな志をゆっくりと追い求めることといったテーマを凝縮した詩的で哲学的なイメージです。鉄舟は偉大な努力を惜しみませんでした。偉大な戦士であり、書家であり、禅の実践者であり学者でもありました。彼にとって、禅におけるこのイメージはゆっくりとした、しかし着実な精神的進歩を表すために用いられています。悟りは一瞬で得られるものではなく、カタツムリが神聖な山をゆっくりと登るように、一生(あるいは多くの生涯)かけて得られるものなのです。カタツムリは、その遅さにもかかわらず、登り続けます。それは静かな忍耐の美徳、つまり小さく謙虚な存在でさえも、粘り強さによって偉大な高みに到達できるという考え方を象徴しています。小さなカタツムリと比較した富士山の雄大さは、自然の偉大さや悟りの前にある人間の謙虚さを強調しています。
山岡 鉄舟 (1836-1888)は 幕末の著名な武士であり、明治維新において重要な役割を果たしました。1836年に江戸の幕臣である武士の家に生まれ、小野 鐵太郞という名を名乗りました。9歳で剣術の修行を始め、17歳で 政府の講武所に入門し、山岡 静山に師事して山岡流 槍術を修めました。道場に入門して間もなく清山が亡くなり、鉄舟は清山の妹と結婚して山岡の名跡を継ぎました。3年後の1856年には講武所の剣術指南役に就任しました。1863年には浪士組 (幕府軍の傭兵部隊として活動する浪人の集団) の指南役に就任しました。28歳の時、浅利義明という剣豪に敗れ その弟子となりました。体格も若さも劣っていましたが、師の精神力には及びもつかなかったそうです。1868年には第15代将軍 徳川慶喜の親衛隊長に任命されました。駿府に出向き西郷 隆盛と交渉し、勝 海舟と西郷の会談を成立させ 江戸城の官軍による開城に貢献しました。その後、明治天皇の幼少期に侍医も務めました。1880年、45歳の時の座禅中に悟りを開きました。その日の午前中に道場へ行き、浅利のもとで剣道の稽古をしました。浅利は鉄舟を見て、すぐに悟りを開いたと気づきました。浅利は鉄舟との剣術稽古を断り、「お前は達者だ」と鉄舟の偉業を認めた。その後まもなく、鉄舟は自身の剣術道場を開き、1888年に胃癌のため53歳で亡くなりました。死の前日、鉄舟は道場から稽古の音が聞こえないことに気づきました。門下生たちが最期の時間を過ごすために稽古を中止したと聞くと、鉄舟は「稽古こそが私の名誉を守る唯一の方法だ!」と言い、道場に戻るよう命じました。彼はその後、辞世の詩を書きました。
腹部を引き締める
痛みに対抗して、
朝のカラスの鳴き声
伝説によれば、彼は瞑想の姿勢で座り 最後の息を吐くまで目を閉じていたという。
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