Skeleton Playing the Lute by Priest ー小泉 了諦
Skeleton Playing the Lute by Priest ー小泉 了諦
Item Code: Z019
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骸骨が月琴を演奏し、傍らに盃と徳利が置かれています。楽器の表面には三日月と舞い上がるカッコウが描かれており、上の詩句には「順佛同人」の署名と「小泉 了諦」の印があります。図像には龍印の署名があり、絹本墨画で 柄麻布に骨の軸で表装されています。サイズは55cm×194.5cmで 全体的に良好な状態です。
小泉 了諦 (1851-1938)は 福井県鯖江市の法輪寺 第八代 小泉了円の長男として生まれました。父の早逝に伴い12歳で寺の住職を継ぎました。14歳で美濃大性寺大安の寄宿舎に入り、数年間仏教を学びました。その後上京し、外典、漢詩、和歌、書道などを学びました。1873年には慶応義塾に入学し、英語を学びました。明治時代に入ると、政府は神仏分離の方針を公布し 神道を国教としました。その結果、廃仏毀釈と呼ばれる宗教改革と差別を求める運動の時代が始まり、仏教界では海外布教活動が盛んになりました。僧侶たちの間では仏教を究めるために原典の経典を学ぶ運動も起こりました。こうして日本仏教の様々な宗派の僧侶がインド、スリランカ、タイといったアジア諸国に留学しました。1889年、本山誠照寺の留学生に選ばれました。インドからスリランカへ渡り、サンスクリット語を学び、小乗仏教を学びました。ここで了諦は優れた研究成果を上げ、「衆の模範である」と称賛されました。その後も留学を続け、トルコでは皇帝に説教を行い、フランスでは大統領を含む300人の聴衆を前に説教を行いました。当時のフランスの新聞は、了諦を「東洋の生き仏」「ヨーロッパにおける仏教伝道のはじめ」と称えました。帰国後、了諦の功績をたたえ、住職から特別な袈裟と高位を授かりましたが、了諦は袈裟のみを受け取り地位は辞退しました。「道念深く、決して髪を蓄えない、色衣もまとわず」と伝えられています。了諦はその後も青松寺の三住職に仕え、本山を支え続けました。特に青松寺26世住職の修源は、了諦を「心の友」「人生の友」と深く信頼していました。1938年1月6日、88歳で亡くなるまで精力的に布教活動を行い、各地を巡業しました。
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