Frantic Image of a Woman
Frantic Image of a Woman
木枠にマウントされた紙に岩絵具、縁取りマット。のむら清六による、赤地にずんぐりとした女性の恐ろしい姿の絵画です。金箔を施した木枠にマウントされた紙に岩絵具で描かれ、黒のマットが付いています。額のサイズは 78 × 52 × 2.5 cm 、絵画自体は 33 x 59 cm で、状態は良好ですが 額の金箔には傷や欠けがあります。
のむら清六は、1916年に山梨県の農家の四男として生まれました。幼少期は親戚に預けられ、紡績工場で働きながら夜遅くまで絵を描いていたそうです。17歳の時、両親や親戚を説得して上京し、様々な仕事をしながら夜間の川端美術学校に通い、岩崎巴人、小松均、谷口山郷らといった画家たちと生涯の友情を育みました。清六は、荒い筆を垂直に立て、下絵を描かずに力強い筆致で絵の骨組みを彫り込む「付立」技法を極めました。1943年には、横須賀海軍に召集され 同時期に美術学校時代に知り合った石川県小松市の旧家の娘:野村時子と結婚し 野村姓を名乗るようになります。結婚当初は収入が少なかった清六ですが、1951年、35歳の時に画業に専念することを決意します。実家を離れ、山梨県山中市の四尾連湖畔の山小屋に移り住み、4年間修行して「付立」の技法を極めました。この間、俳句雑誌「キラヽ」の表紙画を手掛け 山梨県で初めての個展を開催しました。新制作美術協会展、日本アンデパンダン展など、数々の展覧会に出品。1955年、実家のある小松市に戻った後、東京での展覧会や画商との交渉のため 千葉県柏市にアトリエを移しました。1960年代には、平面・厚塗りの技法で優れた作品を生み出し、1970年代以降には 彼の筆致はより自由で自発的になります。自身の俳句を絵画に取り入れるなど、より文人的な画風へと進化しました。彼の作品は東京国立近代美術館、和歌山県立美術館、山梨県立美術館に所蔵されており、2000年には山梨県立美術館で大規模な回顧展が開催されました。